その26.小菅川編



かれは年をとっていた。小菅川の流れの中、ひとりで魚をとって日を送っていたが、一匹も釣れない日が八十四日もつづいた。
今日もかれはいつもの目印から流れに入ると上流へと歩をすすめた。
流れが緩やかになり、視界が大きく開けると、小魚の群れが急いで遠ざかっていった。「おれのねらっているでかい魚は、やつらのそばにいるかもしれない、きっとそのへんにいるにちがいないんだ。」とかれはつぶやいた。
そのとき、川面を見守っていたかれは、岸辺の生木の枝のひとつが、ぐっと傾くのを見てとった。「よし、よし」とかれはつぶやく、「わかったよ」そういって、そうっとルアーを投げ入れた。
かれは2・3回リールを巻き取ると、右手の拇指と人差し指でやわらかくそれをおさえた。引きも重みも感じられない、かれは軽く竿を支えたままでいる。すると、また、ぐっときた。今度のはまるで気をひいてみるような引きかただ。強さも激しさも感じられない。かれには事態がはっきり読みとれた。
食いつけ、うんと食らいつけ、頼むから食ってくれ。もうひとめぐり、帰ってこい、食いつけ。かれは、軽い注意ぶかい引きを感じた。さらに、それより強い引きが来た。が、すぐ静かになった。
つぎの瞬間、かれはなにか手ごわいものを感じた。信じられぬほどの重みを感じた。たしかに魚の重みだ。かれは竿を大きく引き上げる。ラインが指のあいだをどんどんすべり落ちていく。指先に抵抗はほとんど感じられないのだが、さっきの大きな重量感が、かれにははっきり感じとれていた。
「畜生め!」とかれはつぶやいた、「口の端にくわえこんだまま、逃げようとしていやがる。」
が、獲物がとほうもない大魚であるという察しはついている。ルアーを横ざまにくわえたまま、流れのなかを逃げのびようとしている相手の姿が目に見えるようだ。その瞬間、魚がぴたりと止るのを感じた。重量感はなお手に残っている・・・


原種山女:SH種(20cm

・・・道のむこうの釣餌屋では、老人がふたたび眠りに落ちていた。依然として俯伏せのままだ。少年がかたわらに座って、その寝姿をじっと見まもっている。老人はライオンの夢を見ていた。




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